メルフィフになって5日。
ギュギュッと詰め込まれたような時間で新しい体験をし、ほどほど見えたことがあります。
・オークションとマーケットの二つが融合してきている。
・アイテムによって、有名サービスを使い分けた方が収益の効率が良い。
・メルカリのコミュニケーションは子供っぽい傾向。
・スタートアップによるギフトエコノミー的実験は、一旦なりを潜めてしまったらしい。
・マチュアなコミュニティーがあったらいい。
そんな雑感。
一方、マインド面では、この数年の自分の中のストレスが凝縮した形で現れた。
実家の整理でわかった、母親がショッピング依存症らしかったこと。
そして全てのネクタイがクリーニングされて綺麗に並べて保管された父のためぐせ。
親の荷物で倉庫に百万以上も払ってきたこと。
家族が皆他界したため、自分が利用する農村の家を含め3軒と倉庫一つの管理と整理の責任を私が背負った。
そのために失われた、私の様々なチャンスや時間、エネルギー。
…モノに集中して、そんなことが押し寄せてしまった。
そして、モノに対して特別な感覚ーモノに触ると何かが見えるようなー
それがあるから実験商品開発の仕事についていたのだけど、
モノが語る気がする。そのことによって、手放す時に心が痛い。
その痛さが、大変なストレス。
これは実は、母もそうだった。
モノが話しかけてくる感覚を持っていたから。
可哀想、可哀想、と言って捨てられない。
私が買ってあげなくちゃ、と欲しくないものを買う。
執着しないことを心がけ、ミニマルに暮らすのは良いことだと思う。
若い頃は、そんな生き方に目一杯憧れ、コミュニティー作りに参加したこともあった。
自分のものを投げ出しているひとびとが沢山いたけれど、矛盾も眺めた。
農村暮らしの後でいま思うのは、地球に生きてるってのは形があるからこそ素敵だってこと。
それはいわゆる”自然か人工か”というレベルの話ではない。
全てのもののこと。
そして、所有感って生存のために与えられた大切なモチベーション。
手放すのも愛だけど、自分の、と思うのも愛の形だ。
モノは全部が星の輪廻であって、
心、精神と形が統合されたら良いと思う。
二項対立を超えて。
美しいものを愛でて良いし、好きなものは好きで良いし。
さわれて嬉しいとか、目で見て幸せとか、聞いて心地よいとかを否定したこともあったけど、
歳をとって、あと何年かで体もなくなるって思うと、
形がある世界を楽しむことを肯定する、
形を讃えたがっている自分がいる。
若かった頃の修行僧のようにストイックな自分とー多分親への反発もあってー
家族が還ってしまった孤独感の中で変化した自分とが、
この数年間、私の中でコンフリクトしてた。
メルカリをきっかけにモノの価値を集中的に眺めて、
軽い楽しさと、すごい面倒臭さと、ゲームみたいな勝ち負けと、悲しいからくりと
「モノノアワレ」を感じてしまった。
なんでこんなことに時間を使ってるんだろ。
っていうのが正直なところ。
今抱えるモノにまつわる課題をさっさと終わらせて、
社会の役にたつ仕事によって経済面を成立させて、クリアな人生を歩みたい。
美しい場所で、清々しく美しく暮らしたい。
この5日間は、抱える課題の重圧で見えなくなっていた当たり前の願いを掘り起こす機会になりました。
どんなものからでも、学びってありますね。
お世話になったエアークッションに愛と感謝を捧げて。
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